お久しぶりです、ぎらりょうです。
久しく更新してなかったんですが、実はちゃんと色々仕込んでおりました。
今回はその仕込みがちょうどいいタイミングで見てもらえそうだったので、久々の更新でございます。
そう、2024年11月1日(金)の金曜ロードSHOW!終了直後に更新した感想文はこの作品。
『ゴジラ-1.0』
『シン・ゴジラ』以来の国産実写ゴジラ映画というとてつもないハードル、監督の直近作品の評判、第一作目『ゴジラ』の舞台に近い戦後すぐという設定。
アカデミー賞を獲得したという現実を知っている今だと考えにくかと思いますが、公開前までは(本当に大丈夫か……?)という空気があったんです。
それを銀座の路面電車のようにブッ飛ばしたのが、この『ゴジラ-1.0』という作品なのです。
まずこの作品を語るうえで外せないのが“恐怖”なんですよね。
お恥ずかしながら山崎貴監督の作品ってあまり見たことがなく、ただなんとなく『ALWAYS三丁目の夕日』のイメージから人情派の映画をつくる人なのかな~と思ってました。
実際、ゴジラシリーズの中では「色々あったけどなんだかんだゴジラを好意的に見るようになる人間ドラマ」みたいな作品もありますし(スペゴジとか、あ、ドハゴジくんはギアが数段違うから座ってて)、怖い系ゴジラはシン・ゴジラでやったから今度はハートフルな方針で山崎貴監督になったのかなって。
その部分については公開前の評判で「人間ドラマばっかりでゴジラが目立たない作品になるんじゃないか」といった話も流れてましたね。
結果、人間ドラマもしっかり尺が割かれていたのでまあ合ってはいたんですが、それを吹き飛ばすほどの、しかもシン・ゴジラとは全く方向性の異なる”恐怖”を、山崎貴監督は作り上げてしまいました。
映画館で逃げ出したくなったのは初めてだぞ責任取ってくれ山崎貴監督。
そういえばSF作品の金字塔「Alien」も、1作目で劇場から観客が逃げ出したって逸話がありましたね。「Alien」に並んだ「ゴジラ-1.0」。
閑話休題、今作のゴジラの何が怖いかって、このゴジラは「動物」なんですよね。
シン・ゴジラのような「超常的な存在」の進路で被害が発生する、じゃなく動物なので「こっちを見て、こっちを襲う」意図がはっきり伝わってくるんです。
例えるならシン・ゴジラは「台風」なのでこっちに来ないでくれと祈りながら逃げるんですが、今作のゴジラは「熊」なので目が合ったら最期、同じ逃げるにしても”自分をロックオンしている怪物に追いつかれないように”逃げることになるため、本当に怖い。
この怖さがよく分かるのが以下CMのサムネ。
周りに遮るものが何も無い海の上、自分が乗っているのは小さな船。
そこにはっきり目を合わせて追ってくるゴジラ。
今作の中でも指折りの恐怖映像なんですよこのシーン。
ゴジラ2000の冒頭も近い感じですが、あれはまだ陸地の、しかも山間部での遭遇なんで逃げられる可能性は考えられるんですよ。
今回は海の上。
絶望感もひとしおですね。
そこに輪をかけて絶望感を高めるのが「終戦直後」という舞台設定。
現代だったらMOPⅡをはるか高空から撃ち込もうぜ!ってできるんですけど、当時の世界にそんな技術はないです。
何なら終戦直後なので兵器すらそんなにないです。
どうやって倒すねんあの怪物。
その辺は本編をお楽しみに。
とまあまずは”恐怖”についてネタバレにならない範囲で書いたんですが、今作はそれだけじゃない。
実は公開前に懸念点として語られていた”人間ドラマ”が、この作品のもうひとつのストロングポイントでした。
「特攻から逃げた特攻隊員」という背景を持つ人間側主人公、敷島。
演じるのは最近見た作品でどこでも名前を見るな?神木隆之介くんさん。
このとても重い背景が、この作品にとって本当に欠かせないものでした。
その重さ、そして大切さをとてつもない演技力で表現しきった神木くんさんという存在がいたことで、この作品のクオリティは数段跳ね上がったんだと思います。
この辺を語ろうとしたらどうしてもネタバレが含まれますし、そろそろ前座だけで2,000字を超えてしまったので、そろそろネタバレ解禁します。
金ロー後だからもうみんな見てるよね?
見てないなら早く見ておいで。
「敷島が特攻死しなかった」
よくぞこのラストに持っていってくれた。
題材やあのストーリーの流れで「最後の最期にケジメをつけきった敷島の犠牲で日本は守られました」というラストにしても、物語としては良作だったと思います。
それを良しとせず、生き残らせてくれた。
これがこの作品を”良作”ではなく”傑作”に高めきってくれた一手だったと感じます。
まあ初見で(あ、これは生き残るな)とは思いましたが←
ただ、想像していたのは「橘さんが脱出装置を信管発動と偽って教えて助かるんだな」って思ったんですよ。
あんな精神状態になっていた敷島が「逃げ」と捉えられるような行為をするイメージが持てなくて。
でも、敷島は納得したうえで、自分で脱出装置を起動させたんです。
特攻から逃げ、大戸島でゴジラから逃げ、その結果(本人のせいではないですが)たくさんの人が死んだ。
次ゴジラが現れたら、明子の未来がなくなる。
そんな状況でついに死を決心した敷島に許しをもたらしたのが、冒頭で特攻から、そしてゴジラから逃げたことに激昂した橘さんなんですよ。
敷島にとってこれ以上ない「戦争が終わった瞬間」だったんだと思います。
そして、橘さんにとっても「敷島が無事脱出できた」ことが「戦争が終わった瞬間」だったんだなと、そう思うのです。
このシーンをもって、この作品の影の主人公は橘さんだったということに思い当たったのです。
その視点で見る冒頭の大戸島の橘さんからは色々なバックボーンが見えてきます。
まず大戸島というのは作品上「特攻を支援する基地」なんですよね。
そうなると橘さんはその基地のリーダーとして、何人もの特攻隊員を見送ったんだと思います。
年若い同胞が何人も命を捨てに飛び去っていく。
どんなにか良心に応えたことでしょう。
そんな中「機体が故障した」と嘘をつき逃げ出してきた敷島を見て、どれほどの怒りを覚えたのかは想像に難くない。
それでも最後の一線は踏み越えなかった。
そんな日の夜に現れた正体不明の巨大生物。
狼狽する部下に的確に指示を出し、塹壕から逃げる際もあんな巨大な生物が近づいてくるのに最後に脱出するんですよ。
上官としての責務と仲間思いの面の両方を感じる行動ですが、結果として部下は全員死亡。
あろうことか特攻、そしてゴジラを仕留める機会からすら逃げ出した敷島だけが生き残ったのです。
それは強く当たられても仕方ないと思います。
ただ、それでも橘さんは敷島を殺さなかった。
2人しかいない状況ならたとえ敷島が死んでも誰も責任を問えません。
それでも見逃したんです。
まああんな事があってすぐに殺意なんて出なかったということもあるでしょうけど、たぶん「特攻」という行為自体には負い目があり、見送ることしかできない自分に敷島を罰する権利などないという思いがあったんだと想像します。
橘さんの、そんなバックボーンが2周目では想像できるんですよね。
そんな橘さんを呼び寄せるためにとんでもない怪文書をばら撒いた敷島、目の上のたんこぶくらいで済んでよかったなホンマに。
それでもちゃんと話を聞き出すために殺しまではしなかったのは、おそらく東京に上陸した巨大生物が、あの日の夜のゴジラだったと知っていた、もしくはそうとしか思えなかったから、ということなんでしょうね。
そんなタイミングで”あの敷島”が自分を呼び寄せるようなことをしている。
それはなぜか、という疑問があの所業に対して最後の一線を超えさせなかったんだと思います。
実際、敷島から話を聞き、実際に会ったことで”あの時の敷島”ではないと感じたのでしょう、敷島の提案を飲んだのです。
ちょっと話がズレますが、いつまたゴジラが現れるか分からない、そんなタイミングでゴジラを仕留めることに執着した敷島はなぜ橘さんにこだわったんでしょう。
その点については作中でも博士から指摘されていますし、震電という試作機を整備するとしたら橘さんよりも実際に震電の整備をしていた人を呼ぶほうがはるかにいい。
それでも橘さんにこだわった理由は2つあると推測しています。
まずは作中でも触れられていますが「特攻機の整備経験があること」。
敷島は海神作戦の概要を聞いても確実性が薄いと判断していました。
その中で着想を得たのが自らの経歴、そして新生丸でゴジラと戦った経験でした。
内部への攻撃は外部への攻撃に比べてはるかにダメージが大きい。
それを見ていたのです。
そしてそんな攻撃をできるのは、特にあの時代では、特攻によるピンポイント攻撃しかないと思ったんでしょう。
ただ、それを素直に提案しても艇長や博士から確実に止められます。
そんな状況で特攻機の整備ができる人を呼んでほしいともいえない。
だからこそ自分のツテで呼べる人材として橘さんにこだわった、と想像します。
ここまでは現実的な部分での判断ですが、もうひとつの動機としては「自分が特攻することで橘さんの戦争を終わらせたい」という思いがあったんではないかと想像しています。
敷島にとって「あの戦争」は自分が腹をくくった時点で終わった、と思ったんでしょう。
その時に心残りとなることとして、最後の最後に残ったのが橘さんだったのではないでしょうか。
橘さんの存在も敷島の中で戦争を終わらせられない要因だったのだと思います。
そんな心情で自分ひとりだけ戦争を終わらせて退場するのではなく、橘さんの戦争も終わらせることですべてのケジメをつける、そう考えたのではないかと妄想しました。
その判断こそが、最後に敷島が生き残ることになったターニングポイントと考えると、なんとも数奇なことだなと思うのです。いや妄想ですけど。
そういえば書いてなかったですけど、基本的にこの記事の感想=妄想でして、パンフレットとかそういうので裏を取ってないです。
本当に感じたものそのままを感想という体で書き殴ってるだけなので、その点ご了承ください。
閑話休題(2度目)、そんな想像を膨らませてくれる敷島と橘さんの関係性で重要なシーンとなる震電の説明シーン。
あそこで(敷島は生き残るな)という想像はできたんですが、ここに匠な演出があるんですよ。
信管の説明をした後に橘さんの「そして……」というセリフでカメラが切り替わり、ふたりの声は聞こえないシーンに切り替わりました。
ぎらりょうさんはそもそも信管の説明=フェイクと思ってたので、「そして……」に続くのは機体の説明シーンだから省いたと思ったんです。
まさかその後にちゃんと脱出装置の話をして、そして橘さんが敷島を赦すシーンがあるとは夢にも思わず、パラシュートが開くまでは「やっぱそうか~w」と思ってました。ホンマお前さぁ……
なんというか、公開前からずっと言われていた「山崎貴監督のストーリーは先読みしやすいよね」的な論評への回答に思えて、なんだか嬉しくなっちゃったのを今でも覚えてます。
そもそもこの作品、本当に脚本のつながりが匠なんですよ。
敷島のバックボーンや行動原理とゴジラのリンクはもちろんなんですが、特に匠だと思ったのは新生丸でのゴジラとの戦い。
あの戦いって本当に重要で、あそこだけで
・ゴジラは内部からの攻撃に弱い
・放射熱線を吐くと回復に時間を要する
・それらを博士が見ていた(ので海神作戦につながった)
・敷島がついにゴジラと目を合わせて戦えた
・そして生き残った
という要素が詰まっているんです。
そして地味に、でも実は影のファインプレーだったのが高雄の存在だと思います。
作中1回目だけ見ると「鳴り物入りで凱旋したのに数分立たず爆沈するやられ役」なんですよ。
でもよく見てほしい。
高雄が間に合ったことで、敷島たちが生き残ったんです。
機雷でダメージを負ったゴジラは、その原因となった小さな船に猛烈な敵意を持ちました。
あのままだったらみんな沈められておしまい、海神作戦も考案すらされず、ゴジラの天下になっていたでしょう。
だって弱点を知った人間が誰もいないので。
そんな状況で間に合ったのが、高雄。
重巡洋艦という巨体が巨大な砲でゴジラを押し込む。
ゴジラの敵意は小さな船から高雄に移ったのです。
というかあのシーンの高雄の砲撃精度すごすぎですよね。
艦橋がやられても砲撃し続けたアツさにも通じるものがあります。
そんな高雄の攻撃で劣勢となったゴジラ。
高雄が勝つか?
そんな淡い期待を文字通り粉々にした放射熱線の青い光。
ですが、それが活路につながった。
放射熱線は自分にもダメージを与えるということを、博士たちが目撃しました。
そして、そのダメージによりゴジラは撤退。
小さな船、新生丸は生き残ったのです。
その後の結果はもうお分かりですよね。
あのラストにつなげるための存在として、高雄は本当に大きな活躍をしたのです。
この流れもそうなんですけど、話のロジックがしっかり組み立てられているのもこの作品の魅力。
例えば前座で触れた「今作のゴジラは動物」というところ。
動物だからこそ何かしらの思考に基づいて行動しているというところが徹底しているんですよね。
それが怖さにもつながっているし、そして活路にもつながっているというのが本当にしっかりしている。
凶暴な動物だから、なんかちょっかいかけてきた人間とかいう存在をつぶすために、一番近い密集地点である東京を襲うのも、自分がダメージを負ったから撤退する判断もできる存在なんですよ、今作のゴジラ。
そして「そう、生物なんです!」と赤坂さんも言ってくれそうな存在だからこそ、人間側も対策ができるんですよ。
本当にちゃんとしている。
敷島たちが生き残ったこと、ゴジラが海神作戦の想定に近い動きをしたこと、それらが1本の線になってつながっているのが気持ちいいんですよね。
やっぱりこの作品って「ゴジラの怖さ」「しっかり組み立てられた脚本」「それを形にした役者はじめ全ての人々」というすべての要素がかみ合ったからこそ、傑作になったんだろうなって思います。
ストーリーに関しては大筋でもすごくいいのに、細かい部分の演出もいいんですよねゴジマイ(Twitterで流行ってた略称)って。
特によく言われるところとしては「聞き馴染みのあるゴジラの曲が人類の反撃シーンに使われた」という演出。
これ劇場初見で見た時に「その手があったか!!!!!」ってなったんですよね。
実は初代ゴジラのオマージュと知ったのは後からですが、それはそれで未来にバトンをつなげてくれたって思いました(パロディやオマージュってそういう役割だと思うんで)。
そうそう、この作品から感じたものとして「山崎貴監督による未来へのバトンタッチ」ってものがあるんですよ。
よくネタにされる「やったか?!」の大盤振る舞い。
あれって特撮を通った人はすぐに意図が伝わるからある種笑えるんですけど、特撮映画を初めて見たって人も最後には「やったか?!って言うなよ絶対!」って思えるくらいに言ってくれるので、この文化が絶対引き継がれるし、もっと一般化すると思うんです。
それに議論が分かれる最後のシーン。
監督個人の考えとかはあると思うんですけど、あそこの解釈は見た人、なによりも「これからゴジラをつくる人」に託されたんじゃないかなって思うんです。
大勢を占める「典子はゴジラ細胞に侵されて近い内に終わります」でもいいし、ただの暗喩でもいい、個人的には「平成シリーズのようなゴジラと共鳴できる存在になった」でもいいと思うんです。
特撮のお約束や演出、そして続編の可能性。
そういった要素を詰め込んで、そして次代につなげた。
作品単体の完成度もそうですが、アカデミー賞獲得も含め、日本の未来に「ゴジラ」を繋いだのがこの作品最大の勝ちだと思います。
誤字った価値です、でも勝ちでもいいでしょう。
そんな作品を、小さい頃にじいちゃんが録画してくれたスペゴジで目覚めて以降ゴジラを好きでいられた人生の中で、劇場で見ることができたのは本当に幸福でした。
今はサブスクでもすぐに見られるんですが、映画館でリバイバル上映をする機会があったらぜひ劇場で見てほしい。
この感想文の最後に、そんな希望を託します。
それではまた次の感想文で!
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※2024年11月1日23時28分追記
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